「逆説の日本史」の執筆を手がけている井沢元彦氏によると、いにしへも今も日本人は、いまだ言霊(言葉に宿ると信じられた霊的な力。)信仰をもっている。
そのためか、日本人にとって「遺言」は「死」と直結してしまうようで、敬遠され忌み嫌われている印象を強くうける。
 しかし職業柄、「遺言さえあれば」という状況に直面することもしばしば。
このような傾向を変革していくことは、我々に課された宿命だと痛切に感じている。
そこで門外不出シリーズ第2弾は、「値千金の遺言」と題し遺言を奨励していきたい。
とはいえ、通常の「遺言のすすめ」的な話では、根強く浸透する言霊信仰には勝てない。多くの先人が辛酸をなめてきた。そこで思いきって、別の角度からの切り口で突破口を見出そうと思う。
細川幽斎という乱世を生きた文武両道の将のエピソードを取り上げながら、遺言の固定観念を打ち破っていく。
少し冒険的な試みになるが、恐れずに切り込んでいきたい。しばしお付き合いのほど。


 天下分け目の関が原の合戦(1600年9月15日)を制した徳川家康は、細川幽斎を大坂城に招き入れた。

「余人を交えずにお話をしたい」
といった。ふたりきりになると家康は突然上座から下がり、下座にいって床に両手をついた。そして、
「細川殿、このとおりでござる」
とひたいを床にすりつけた。幽斎はおどろいた。そこで、
「徳川殿、どうぞそのような真似はおやめください。この幽斎身のおきどころがなくなります」
とあわてた。しかし家康は首を横に振って、
「いやいや、そうではござらぬ。関が原の合戦で、この家康が大勝を博すことができたのも、ひとえに細川殿のお蔭です。」
(細川幽斎の経営学 童門冬二著 PHP文庫より)


もっとも、この手法は、家康お得意の人心掌握術だったらしく、幽斎だけではなく、黒田長政、福島正則、山内一豊などにも同様に心震わす賛辞を贈っている。
だが幽斎は、他の武将と違い合戦の場に赴いてはいない。
その彼が、何故そのような賛辞を贈られたのか?

 私たちは、「関が原の合戦」といえば徳川家康率いる東軍が石田三成率いる西軍をわずか数時間で撃破したと学んでいる。それ以上の結果もそれ以下の史実もあり得ない。
だがリアルタイムで戦っていたものにとっては、生きるか死ぬかは紙一重であっただろう。たとえ家康であろうと同じこと。
一般的には、優柔不断な小早川秀秋が、豊臣氏の一族であるにも関わらず石田三成を最後の最後に裏切り勝敗が決したとされている。
15600の兵を率いる小早川秀秋は、松尾山に布陣し戦況を見極めていたが、もしも西軍にあと25000(一説では15000)の兵が加担していたら果たして小早川秀秋は東軍に靡いていただろうか?

 関が原の合戦を遡ること約2ヶ月の7月13日。
石田三成が、西軍に加担させるための策として、大坂・京都在住の諸大名の妻子人質策を開始するが、幽斎の子細川忠興の妻細川玉(細川ガラシャ)が大坂玉造の屋敷で死をもって抵抗した。
人質策は完全に裏目となり、これを契機として、たちまち形勢は東軍に傾いた。
起死回生をはかるべく、石田は、細川忠興の所領丹後を攻めさせる。
(関が原戦に先立って石田三成が攻めさせた城は、大坂から関東方面までの重要な経路に位置する伏見城と大津城そして田辺城のみ。戦略からみて、家康攻めの経路にない田辺城を攻めたのは不可解とされているが、忠興との軋轢に加え、この細川ガラシャの死による形勢の逆転の影響は計り知れない)
細川忠興がすでに5000の軍勢を率いて上杉景勝と対峙するべく会津に向けて参陣しているのは計算づくのことだ。
そこで忠興の父幽斎は、隠居の身ながら意を決して奮起する。
田辺城は、南に山城との国境になる山を背負い、山地から流れ出る高野川が城の西で海に注ぎ、北の正面には海が拡がるという地形(栄華をつかんだ文武両道の才 細川幽斎 春名徹著 PHP文庫参照)になっており多勢に無勢の逆境のなかで持久戦に持ち込むには効率のよい規模である。
幽斎は、守備を田辺城と決め、細川家の本拠としていた宮津城をはじめ久美、嶺山(峰山)の城をすべて焼き払い、忠興の家族や家臣たちをすべて田辺城に集めた。

幽斎方の兵の数はわずか500。一方、石田軍の軍勢は総勢25000。
圧倒的不利な情勢のなか幽斎は、大いに求心力を発揮し、獅子奮迅の防戦を繰り広げ、関が原の合戦直前まで田辺城に籠城し、25000の軍勢をここ田辺に留めぬいたのだ。

家康の幽斎への賛辞は、このことを指す。たしかに田辺城があっけなく陥落し、この25000の軍勢がその足で関が原に向かっていれば、果たして小早川秀秋はどう動いたか。
そう。歴史は変わっていたかもしれない。

田辺城籠城の際に、幽斎が発句した有名な歌がある。

いにしへも今もかはらぬ世の中に
       こころの種を 残す言の葉

(変わらない悠久の時の流れの中に、和歌は言葉によって心の種を残していくものです。
そのように私の歌と心も残るならば有難いことです。)
舞鶴市田辺城資料館パンフレットより


細川幽斎は、武人であるとともに文人であった。
いや、むしろ本能寺の変に際し、剃髪して織田信長に弔意を表し、家督を子忠興に譲ってからは文化人としての色彩が色濃くなった。和歌・連歌はもとより、太鼓、謡曲、乱舞、禅、茶道、書道などなど当時の文芸界においては欠かせぬ人物といわれていた。
なかでも「古今伝授」の継承者として朝廷社会においてもその名を広く知られていた。

歌の世界でその名も高い藤原定家の孫、為氏を祖とする二条家は、二条派という歌学を伝えた。だが時代がたつにつれ二条派の歌学も衰え、門弟が細々と伝統を守っているにすぎないという状態になり、やがて下野守東常縁(しもつけのかみとうのつねより)という武家が連歌師宗祇(そうぎ)に二条派の歌学を伝授した。それが「古今伝授」のはじまりとされていて、宗祇から三条西実隆(さねたか)、子の公条(きんえだ)、さらにその子の実枝(さねき)にと享けつがれた。
(幽斎玄旨 佐藤雅美著 岩波書店より)


そして三条西実枝から継承したのが細川幽斎なのだ。しかもこの世でたったひとりの「古今伝授」の継承者である。
古今伝授というのは、古今和歌集に集められている歌の解釈について、特別な秘法があり、これを文書で伝えずに、口頭で伝えるというものである(細川幽斎の経営学 童門冬二著 PHP文庫より)

幽斎田辺城籠城の報を聞き、古今伝授の廃絶を憂慮した智仁親王が使者を出し、開城を勧めたが、幽斎は武士の名の下にその申し出を断る。
幽斎は、死を覚悟した上で、その使者に、智仁親王に対して古今伝授を承継する旨を宣言する。
このときに詠んだ歌が、先に記した「こころの種」の句である。
しかし、智仁親王は、この宣言を口外しなかったため、今度は、時の帝(後陽成天皇)が、直々に石田軍に勅命をだし、籠城より数えて52日後、ようやく囲みが解かれた。(以上、細川幽斎の経営学 童門冬二著に基づく)
ちなみに、文化的伝統を守るために、天皇が勅旨を送り、戦いに終止符が打たれたケースは類を見ないといわれている。

 甚だ前置きが長くなったが、ここからが本題。
 この幽斎が詠んだ歌と田辺城籠城での一連の行動こそが、理想とする値千金の『遺言』である。
本来なら、幽斎は、すでに隠居し家督を忠興に譲っているので、遺言など無用だ。
戦のさなか、大群に囲まれながら取り乱すこともなく沈着冷静に人々の心を動かす歌を詠んだ幽斎。
本人は、この句が辞世の句となることも予期したことだろう。
幸い勅旨により田辺城を開城、さらには関が原の合戦に東軍家康側が勝利をおさめたことで、幽斎は、生命の危機を脱する。その後約10年を生き、77歳で天寿を全うする。
その余生は、幽斎があの日あの時あの場所あの状況で歌を詠んだからこそ、より存在価値が高まったといえよう。
それは武人にして文人たる幽斎ならではの生きざまそのものであり、家康に賞賛され、歌人として朝廷でも珍重され、子忠興もより父を敬うようになり、世間においては当代一流の文化人との評価を確固たるものにし、新しい時代の幕開けにおいて一目置かれる存在となったのだ。

さらに高まる存在価値。
この句とその後の行動こそが、言霊にも惑わされない本来あるべき遺言の形、いわば「値千金の遺言」ではないだろうか。

遺言を書くときは、残された遺族への財産の引き継ぎという意味合いだけではなく、自身の生きざまを表現することに重点を置く。
そして死の直前ではなく、機が熟したときに、したためる。
そうすることで、遺言は、書いた本人にとってもその後の「生きる糧」にもする。

いにしへも今もかはらぬ世の中に
       こころの種を 残す言の葉

余談になるが、幽斎が亡くなった日は、奇しくもいにしへ(平安時代)の歌人 藤原定家の命日である。
幽斎は、終生、定家の歌風を重んじ手本としたとされている。これも他生の縁にほかならない。(日本の100人 41 細川幽斎参照)

 幽斎のように、いい得て妙なる遺言(言の葉)を書くことは、われわれ凡人には難しいかもしれないが、魂のこもった言の葉を心の種として後の世に残していきたいものである。

行政書士 門 田 猛